プロローグ 七賢人と図書館の秘密
(著/依空まつり)
リディル王国北西部にあるヘイムズ=ナリア図書館は、リディル王国で最も有名なアスカルド大図書館に次ぐ、歴史ある図書館である。
ヘイムズ=ナリア図書館では、貴重な旧時代の書物も複数保管しており、蔵書にも建物そのものにも歴史的価値があった。
だが悲しきかな、致命的に交通の便が悪く、利用者は年々減っていく一方。
おまけに管理していた司書官の一族も途絶え、ヘイムズ=ナリア図書館はそう遠く無い未来、廃館されるだろうと言われている。
そんなヘイムズ=ナリア図書館で、受付の娘二人が雑談をしていた。
「先輩、見てください。あんまり暇なんで、来館者名簿に花の絵を描いてリボンで可愛くしてみたら、これが会心の出来で……」
「お願いだから、もう少し賢そうな顔で座っててちょうだい。今日は王都から七賢人様がお見えになるのよ」
「七賢人って、半年ぐらい前に二人入れ替わりませんでしたっけ? 新しく着任されたのが〈結界の魔術師〉様と……えーと、もう一人は……誰だっけ?」
「〈結界の魔術師〉ルイス・ミラー様、〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレット様ね。今日お見えになるのはこのお二人ともう一人。〈深淵の呪術師〉レイ・オルブライト様よ」
ヘイムズ=ナリア図書館は、魔導書や呪術書の類を複数所蔵している。それらの管理は非常に難しく、物によっては封印結界を施す必要があった。
そこで蔵書の補修及び封印の強化作業のために、七賢人がやってくるのだという。
「先輩、〈結界の魔術師〉様って、魔法兵団の元団長でしたよね? お強くて、でも紳士的でとても素敵ですよねぇ。えっへへへ……恋人とかいるのかな」
「間違ってもサインをねだったり、連絡先を聞いたりしないように。ヘイムズ=ナリア図書館の品格を貶めるような真似だけはやめてちょうだい」
「はぁーい」
後輩の娘が元気よく返事をしたその時、換気のために開けていた窓から、ガラゴロガラゴロと何かを転がす音が聞こえた。
馬車の車輪の音とは違う、小さな荷車か台車を転がす音だ。
今日は新刊が届く日だっただろうか? と受付の娘達が顔を見合わせていると、図書館入り口の扉が開く。
扉を開けたのは、栗色の髪を三つ編みにした男だった。女性的な美しい顔立ちで、右目に片眼鏡をかけている。
夏だというのに、身につけているのは金糸の刺繍を施したローブ、右肩に担いでいるのは身の丈ほどの長さの黄金の杖。
リディル王国では、上位の魔術師ほど杖が長くなる。そして、身の丈ほどの長さの杖を持つことを許されているのはたった七人──魔術師の頂点に立つ、七賢人だけだ。
「ご機嫌よう、〈結界の魔術師〉ルイス・ミラーと申します。館長からのご依頼で参りました」
ニコリと品よく微笑む顔はとても美しかった……が、受付二人の目はルイスの背後に釘付けになった。
ルイスは左手でロープを握りしめている。そのロープは彼の背後にある台車に繋がっていた。
どうやらルイスは、この台車をロープで引きずりながら、ここまでやってきたらしい。
小さな扉ほどの板に車輪をつけただけの粗末な台車の上には、ルイスとよく似たローブを着た人物が二人、屍のように横たわり、夏の太陽に晒されていた。
受付の娘達が台車をチラチラ気にしていると、ルイスは殊更美しい笑顔で言う。
「到着早々に申し訳ないのですが、水を一杯いただけませんか?」
先輩の娘がすぐに視線を台車からルイスに戻し、返事をする。
「今日は暑いですものね。すぐに冷たい飲み物を……」
「いえ、ただの水で結構。それと、コップではなくバケツで」
そう言ってルイスは、背後の台車でぐったりしている二人を見る。
「そこの干物どもに、ぶちまけてやろうかと思いまして」
ルイスの声が聞こえているのかいないのか、干物扱いされた二人が台車の上からノロノロと起き上がった。
「つ、着いた……のか……」
「うぅ……気持ち悪いよぅ……」
先に起き上がったのは紫の髪の青年。遅れて台車から転がり落ちるように起きたのは、薄茶の髪を粗末な三つ編みにした小柄な少女だ。
真っ青な顔で口元を押さえている二人に、ルイスは白い目を向けた。
「お二人とも、ここまで運んでやった優しい私に、何か言うことは?」
ルイスが冷ややかに言い放つと、紫の髪の男と三つ編みの少女は周囲を見回し、「おひゃぁっ」「ぴぎゃぁ」と各々奇声としか言いようのない声をあげた。
「うぉぉぉ、夏の太陽が目に痛い……夏が俺を愛してくれない……繊細な俺は干物になってしまう……日陰、日陰はどこだぁぁぁぁ……」
紫の髪の男は両目を手で押さえてのたうち回っていたが、やがてカサカサと地を這う虫のような動きで移動し、図書館受付横にある棚の陰に潜り込んだ。
一方三つ編みの少女は、フードの上から頭を抱えてうずくまり、シクシクと泣きだす。
「ひぃん……知らない場所怖い、知らない場所怖い、知らない場所怖い……うぅっ、わぁぁぁん!」
少女は泣きじゃくりながら、ボッテンボッテンと鈍臭い走り方で窓辺に駆け寄り、カーテンの中に潜り込んだ。その姿たるや、さながら季節外れの蓑虫である。
「日陰……俺を愛してくれ……」
「ひぃん……ぐすっ……帰りたい」
日陰に愛を乞う男と、蓑虫になった少女に、ルイスは深々とため息をついた。
「お二人とも、水を張ったバケツに頭を突っ込まれたくなければ、そろそろ人間に戻ってくれませんか?」
態度こそ紳士だが、発言がいちいち物騒である。
絶句している受付娘達の前で、ルイスは何事もなかったかのように来館者名簿を手に取り、リボンを飾った表紙に「おや、可愛らしい」と呟いた。
* * *
半年前、史上最年少の一五歳で七賢人に選ばれた天才少女、〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレットは引きこもりである。
モニカは日夜、王都から離れた山小屋に引きこもり、個人的な魔術の研究や、数字の絡む仕事に没頭して、静かに暮らしていた。
そんなモニカの元を同期のルイスが訪れたのは、とある清々しく晴れた夏の日の朝。モニカが徹夜で書き上げた論文を胸に抱き、テーブルの下で安らかに寝ていた時のことであった。
山小屋はベッドも床も、大量の書類と本に占領されている。だから、唯一余裕のあるテーブルの下で体を丸めて寝ていると、入口の方から呆れたような声が聞こえた。
「同期殿、貴女、またこんなところで寝て……」
「……ルイスさん? 必要な書類があったら、持っていって、ください……」
「私は書類の回収に来たわけではありません」
ルイスは書類だらけの床を器用に移動し、テーブルの下で微睡むモニカを引きずりだす。
「書類ではなく貴女を回収しにきたのですよ、同期殿。仕事です」
ここでモニカの記憶は途切れていた。寝落ちしたのである。
次に目を覚ました時、モニカはヘイムズ=ナリア図書館に向かう馬車の中であった。
「おはようございます、同期殿」
「…………」
「馬車ですみませんねぇ。うちの精霊がいれば空をひとっ飛びなのですが、アレは今日一日、姉弟子殿に貸出中でして」
謝るべきは移動手段ではなく、勝手に連れ出したことではないだろうか。最早、誘拐も同然の仕打ちである。
絶句するモニカの目に映ったのは、馬車の同乗者が二人。一人はルイス、もう一人はルイスと同じローブを着た紫色の髪の青年──七賢人が一人、〈深淵の呪術師〉レイ・オルブライトだ。
モニカは七賢人になって半年が経つが、実はルイス以外の七賢人とは殆ど口を利いたことがない。
特にレイは会議にあまり顔を出さないし、たまに姿を見せても部屋の隅でブツブツと何事かを呟いているばかりで、殊更話しかけづらい雰囲気なのだ。
今もレイはモニカと対角線上になる席に縮こまり、ブツブツと何事かを呟いている。
モニカはそっとレイから目を逸らし、向かいに座るルイスに訊ねた。
「ルイスさん、こ、ここどこですか? わたし、なんで馬車に……この馬車、どこに向かって……」
「目的地はヘイムズ=ナリア図書館──正確には、図書館最寄りのロアという街です」
モニカの最後の疑問にだけ、ルイスは簡潔に答えてくれた。
ヘイムズ=ナリア図書館。歴史ある有名な図書館なので、モニカも名前だけは聞いたことがあるが、直接足を運んだことはない。
何故、自分がそんな場所に連行されているのか。モニカの疑問に答えるように、ルイスが言葉を続ける。
「図書館から、呪術書の修復と、魔導書の封印補修の依頼があったのですよ。その数、驚きの四〇〇冊超」
どう考えても一日で終わる量ではない。どんなに早くて丸二日はかかる量である。封印の種類によっては、もっとかかってもおかしくはない。
「こんな量の封印作業をしていたら、私の喉が枯れてしまうと思いませんか?」
封印の魔術を使うには、当然だが詠唱が必要である。術によっては数十分にわたって詠唱を続けなくてはならないものもあるのだ。
モニカは顔を引きつらせた。ルイスの言いたいことが想像できたのだ。
ルイスは聖句を唱える聖職者の顔で、胸元に手を当てて言う。
「しかし、神は私を見捨てていなかった……私にはとても頼りになる同期がいるのです。その同期はなんと、この世でたった一人の無詠唱魔術の使い手でして」
無詠唱で魔術を使える魔女は、二つの名の通り沈黙した。あまりの横暴さに絶句したのである。
ルイスはモニカの態度など意にも介さず、座席の横に置いていた布の塊を差し出した。
「椅子の背もたれに引っかかってたので、持ってきました」
ルイスが差し出したのは、モニカの七賢人としての正装用ローブだ。
ローブとルイスを交互に見ると、ルイスは笑顔でモニカの肩を叩いた。
「という訳で、無詠唱でできる分の封印作業はよろしくお願いします! 無詠唱ではできない、複雑な結界の方は私がやるので」
横暴である。
それでもほぼ手ぶらで連れてこられたモニカに、拒絶などできるはずがなかった。
ヘイムズ=ナリア図書館は、ロアという街から更に徒歩で三〇分ほど歩いた森の中にある。
以前はもう少し街から近かったのだが、一年前に土砂災害で道が塞がってしまい、今は馬車を使えない細い道を歩く必要があるらしい。
しかしロアの街に到着した頃には、モニカとレイの二人は馬車酔いと夏の暑さで参ってしまい、とてもではないが図書館まで歩けるような体調ではなかった。
そういう時、「体調が良くなるまで休憩しましょう」などとは言ってくれないのが、ルイス・ミラーである。
馬車の中で読書をしていたくせにまったく馬車酔いしていないルイスは、街で台車を借りると、そこにモニカとレイを雑に転がした。
そして台車を縄で引きずって、スタスタとヘイムズ=ナリア図書館まで歩きだしたのである。
* * *
荷物のように運ばれたレイとモニカは、ルイスの手で日陰とカーテンから引きずり出され、図書館最奥にある魔導書専用の保管室に連れて行かれた。
保管室は比較的こじんまりとした部屋で、入って右手に本棚が五つ、等間隔で並んでいる。
左手には作業用のテーブルがあり、本の修復作業に必要な道具や、本のリストなどがきちんと並べられていた。
ルイスから解放されたレイはテーブルに突っ伏し、ブツブツと不平不満を垂れ流している。
「普通は、馬車酔いした同僚を街で休憩させるとこだろ……荷物扱いして引きずるなんて、人の心が無いにも程がある……」
「貴方方が元気になるのを待っていたら、日が暮れてしまうではありませんか。何のために、私が〈沈黙の魔女〉殿に協力してもらったと思っているのです? 今日中に作業を終わらせたいからですよ」
ルイスは封印処置が比較的簡単に済む本と、時間がかかる本を仕分けしながら、真面目くさった顔で言う。
「明日は婚約者とデートなので」
モニカとレイは思わず作業の手を止めて、ルイスを凝視した。
若者二人に人間性を疑う目で見られても、ルイスはどこ吹く風である。
「婚約者とのデート以上に、優先するものってあります?」
さも当然のように言い放つルイスに、レイが親指の爪を噛みながら呻いた。
「くそぅ、くそぅ、妬ましい……いつか俺に婚約者ができたら、同じことを言い返してやる……」
「あっはっは。どうぞどうぞ」
「どうせ俺に婚約なんて無理だと思ってるんだろぉぉぉぉ! くそぅくそぅ、他でもない俺が一番そう思ってるんだよ! 呪ってやる、呪ってやる! デートでズボンの尻が破れて大恥かく呪いをかけてやるぅぅぅぅ!」
「私の婚約者は寛大なので、ズボンが破れても繕ってくれますよ」
ルイスがサラリと返すと、レイは目を剥き、椅子から転げ落ちた。
そうして哀れな呪術師は心臓の辺りを押さえて、ビクンビクンと痙攣する。
「呪詛に惚気を返された……惨めさで俺の心が死んだ……死因、惨め死……」
ルイスは床で痙攣する同僚など目もくれず、仕分けした本の山をモニカに押しやった。
「あ、同期殿。こっちの魔導書に耐火術式込みの三級封印をお願いします」
「は、はぁ……」
モニカはチラチラとレイを気にしつつ、ルイスから本の山を受け取った。
リディル王国では、魔術書と魔導書は明確に別物として扱っている。
一般的に魔術の扱いや理論を記した教本のことを魔術書と呼び、これらは本として分類される。
一方、本という媒体に特殊な塗料で魔術式を記し、その魔術式を読み上げるだけで魔術が発動する物を魔導書と呼び、こちらは書物ではなく魔導具の一種として扱った。
かつて魔導具が今ほど発達していなかった時代、魔導書は誰でも簡単に魔術を発動できる便利な道具として重宝されていたという。
だが魔導書は僅かな汚損で魔力が漏れたり、記された術が暴走することも少なくなかった。どうしても紙という媒体である以上、劣化は早い。
魔導書の後に開発された現代魔導具は、その八割以上が鉱石に魔術式を刻み、魔力付与を施した物である。
これらの現代魔導具は魔力を込めるだけで発動するし、詠唱もいらない。魔術の知識が無くても、僅かな魔力で発動できる。
それに比べて魔導書は読み上げる必要があるし、管理も難しい。そのため、魔導書は緩やかに廃れていったのだ。
これに困ったのは、魔導書を多数所持する図書館であった。
魔導書は管理が難しいので、所持するにも破棄するにも金と手間がかかる。
そこで近年は、未使用の魔導書は封印結界を施してしまうのが一般的になっていた。それが一番安全かつ低コストな管理方法だからだ。
(この本の封印術式の状態は……)
モニカはルイスが仕分けした魔導書の、封印の劣化具合を確かめた。
酷く劣化している場合は解除してかけ直し。それ以外は簡単な補修と強化を施す。そして劣化具合と修復内容を紙に記録するまでが、一連の流れだ。
(劣化は軽微。ほつれている封印の補修。補強……定着完了)
モニカは無詠唱で魔導書の劣化を修復し、その片手間で修復内容を記録する。
無詠唱魔術の使い手であるモニカの場合、封印術式を施すより、確認や記録作業の方がよっぽど時間がかかった。
「あの、ルイスさん……こっちの山、封印、終わりました」
モニカが五十冊目の本をテーブルに積み上げると、ルイスは羽根ペンを動かす手を止め、しみじみと呟く。
「こういう時、貴女って魔術師としては有能なんだなぁと心の底から思いますね。この短時間で、この量の封印を終わらせるとは……」
封印術は結界術の一種で、魔術の中でも比較的難易度が高い。
モニカは全ての結界術を無詠唱で使える訳ではないが、簡易な封印を施す程度なら無詠唱でできる。
それ故、量の多い封印作業において、モニカの無詠唱魔術は非常に重宝された。
一方、ルイスが処置を施しているのは、より強固で複雑な高度封印術式である。
こちらは危険性が高い魔導書に施される物で、当然だが術式の起動には相応の手間がかかる。
ルイスの肩書きは〈結界の魔術師〉。防御結界や封印結界など各種結界術に関して、国内で右に出る者はいない。
そんな彼が施している封印術式は、まるで高度な建築物のように精緻で、計算し尽くされていた。
結界術は魔術式に対する深い理解力と、針に糸を通すような緻密な魔力操作技術の両方が必要とされる。
ルイスはそのどちらも高い水準を維持しているからこそ、最小の魔力で最適な結界を作り出すことができた。これはモニカには真似できない技術だ。
ルイスの結界術をモニカがなんとなく観察していると、ルイスが本棚に目を向けた。
「さて、封印作業が終わった本を、本棚に戻しておきますか」
「はい……」
ルイスは山になった本を軽々と持ち上げる。彼はどちらかというと細身の男性なのだが、魔法兵団に所属していただけあって、腕力も体力もモニカとは比べ物にならない。
非力なモニカは分厚い本を五冊持ち上げただけで、腕が痛くなった。
(うぅ、重い……)
風の魔術で持ち上げても良いのだが、この後も封印作業が続くことを考えると、魔力は温存しておきたい。
モニカは小枝のように細い腕をプルプルと震わせながら、本を一冊ずつ本棚に戻す。
そうしてテーブルと本棚をせっせと往復していると、背後から声をかけられた。
「……なぁ」
今にも消えてしまいそうな、か細く陰気な声はレイの声だ。
最初はルイスに声をかけているのかと思ったが、レイのピンク色の目は明らかにモニカを見ている。
モニカは咄嗟に手元の本を胸に抱いて、身を強張らせた。
同じ七賢人だが、モニカはレイと会話らしい会話をしたことがないのだ。
「ひゃ、ひゃいっ。なんで、ひょうか……っ」
緊張にビクビク震えるモニカに、レイは手にした本を掲げた。
「〈沈黙の魔女〉に訊きたいんだが……呪術書って、一般的に良い印象ないよな?」
呪術書とは呪術の扱い方を記した物であり、呪術書自体が呪われているわけではない。魔術書同様、書物に分類される。今回の作業にレイが呼ばれたのは、この呪術書の修復作業のためだ。
呪術は魔術と似て非なるものであり、術式の系統もまるで異なる。だから、誰にでも修復できるものではなかった。
だからこそ、七賢人で唯一呪術師を名乗るレイが呼ばれたのだ。
「呪術書は持ってるだけで呪われそうとか、なんか不気味って思われてるよな?」
「す、すみません。ちょっとよく分からない、でふ」
「こういう表紙にしたら……女の子は嬉しい?」
そう言ってレイは、一冊の本を掲げた。
それはレイが表紙の修復をしていた呪術書である。先ほどチラリと見た時は、乾きかけの血を思わせる赤黒い表紙だったのだが、今は全く別の表紙が貼られていた。
淡いピンク色の表紙には、花束を胸に抱く可愛らしい少女の絵が描かれている。
極め付けはタイトルだ。『呪術入門』というタイトルが『初めてのおまじない』に書き換えられている。
本の表紙に使われている紙も塗料も、魔導書修復にも使われる物だ。魔力付与した植物や鉱石を加工した、大変高価な代物である。
それを贅沢に使って描かれた、可愛らしいリボンと花の表紙にモニカは言葉を失った。
モニカが強張った顔で立ち尽くしていると、本を片付けていたルイスが作業の手を止め、心の底からどうでも良さそうな顔で言う。
「無駄な努力の見本市でも始めるおつもりですか?」
「無駄とか言うな! かっ、可愛いだろぉ!? この図書館の来館者名簿が可愛かったから、参考にしたんだ……これなら、女の子でも手に取りやすいかな、って……」
どうやらこの可愛らしい表紙は、呪術の印象を良くしようというレイなりの奮闘らしい。
だが、これは表紙の修復というには度を過ぎている。ほぼ別物だ。
モニカはおずおずと口を挟んだ。
「あの、本を書いた方に、怒られるんじゃ……」
「著者、俺」
「でも、図書館の人が困るのでは……」
本のタイトルを変えたら、書物のリストと一致しなくなってしまう。
モニカがそう指摘すると、レイはしばし考えて、ポンと手を打った。
「じゃあ、『呪術入門〜初めてのおまじない〜』にしておこう……呪術入門の文字を小さくすれば、誤魔化せる……くくっ。これで、呪術に対する不気味で気持ち悪いという偏見も無くなるはず……」
モニカは改めて、レイが作り直した表紙をまじまじと眺めた。
レイは絵心があるらしく、描かれている絵は繊細なタッチで大変可愛らしい。
……が、どんなに可愛い表紙にしても、中身は呪術の指南書なのだ。
ルイスが呆れたように鼻を鳴らした。
「呪術書など、他人を不幸にする方法を記した本でしょう? その表紙を可愛くして、何になると言うのです」
「ば、馬鹿にするな……呪術の中には、自己肯定感を上げる呪いだってあるんだからな!」
「ほぅ? 呪いで自己肯定感を上げるとは、具体的にはどのように?」
ルイスの言葉にレイはニヤリと口の端を持ち上げ、いかにも邪悪な呪術師らしい顔で笑う。
そうして、たっぷりと勿体ぶって言った。
「聞いて慄け。自己肯定感を上げる呪い……それは、他人の靴下に穴を空ける呪いだ!」
ルイスは無言で着席し、黙々と封印作業を再開した。
聞く価値も無いと言わんばかりのルイスに、レイがテーブルを叩いて喚き散らす。
「最後まで聞けよぉ!」
「はいはい」
ルイスの雑な相槌にレイは不服そうな顔をしていたが、モニカの方を振り向くと、得意げに語り出した。
「嫌いな奴の靴下に穴を空け、『あいつは穴の空いた靴下を履いているけど、俺は穴の空いてない靴下を履いているんだぞ』と思うことで自己肯定感が上がる……『呪術は人を苦しめるためにある』というオルブライト家の教えに従い、他人を苦しめつつ自己肯定感を上げる呪いなんだ……」
「えぇと……」
モニカが返す言葉に困っていると、ルイスは心の底からくだらなそうに呟いた。
「同期殿、正直に言っておやりなさい。ショボい、と」
「ショボいとか言うな! 他にも、被術者の夢に現れて、嫌がらせができる呪いだってあるんだぞ! ……くくっ、夢の中なら、普段言えないことだって言いたい放題……」
「面と向かって言えば良いじゃないですか」
「それができないから、呪術があるんだろぉぉぉ……!」
レイが心底憎々しげにテーブルをバンバン叩く。
ルイスは嫌そうな顔で、揺れるインク壺を抑えた。
「揺らさないでください。インクがこぼれる」
「女の子はおまじないが好きなんだろぉぉぉ! なら、呪術も好きになってくれていいじゃないかぁ……っ!」
レイの叫びにモニカは困ってしまった。
そもそもモニカは、おまじないに興味がない。寧ろ術式で説明ができる呪術の方が、よっぽど興味深いとすら思う。
モニカがモジモジと指をこねていると、ルイスが羽根ペンを動かしながら呟いた。
「おまじないなら、私の学生時代にも流行りましたねぇ。懐かしい」
ルイスはモニカと同じ魔術師養成機関ミネルヴァの出身である。
魔術師見習いであるミネルヴァの生徒が、効果の怪しいおまじないに興味を持つことが、モニカには意外だった。
「ミネルヴァでも、おまじないが流行ってたんです、か?」
基本的に研究室に引きこもっていたモニカは、学生間の流行に一切触れないまま、飛び級で卒業してしまったから、どうにもピンとこなかった。
モニカが首を捻ると、ルイスが書き物をする手を止めてモニカを見る。
「ミネルヴァに限らず、若者の間で流行っていたのですよ。花の小物に朝露を垂らすと幸運のお守りになるとか、青いインクで恋文を書くと両思いになれるとか……今の在学生でも知っている者はいるのでは?」
(花の小物に朝露? 青いインクで恋文?)
当然だが、モニカはそんなおまじないなど聞いたことすらない。
モニカは腕組みをし、眉間に皺を寄せる。
「魔力付与するなら朝露より純水の方が良いし、魔導書専用のインクで精神干渉術式を書くならともかく、ただの青いインクで恋文を書いて両思いになる理由が分からないです」
モニカが魔術師としての見解を口にすると、ルイスが小さく肩を竦めて笑った。
「朝露なんて用意するのが面倒だし、青いインクは高級品でしょう? そういういつもとは違う特別な物を用いることで、自己肯定感を上げるのですよ。つまりは気分です、気分」
「はぁ……」
いつもとは違う特別な物で、自己肯定感を上げる──その感覚がモニカには理解できない。そんな不確かな物に縋るより、数式について考えて、心落ち着かせる方がよっぽどいいではないか。
(おまじない……きっと、わたしには一生無縁の物なんだろうな)
胸の内で呟き、モニカはノソノソと作業に戻った。
「ところで呪術師殿」
ルイスが作業の手を止めずに口を開く。
テーブルに張りついていたレイは、目だけをギョロリと動かしてルイスを見た。
「俺の心は傷ついている……暴言なら聞きたくない……」
「そもそも呪術書は、閲覧に許可がいる専門書でしょう。一般書ならともかく、手に取る者が限られている専門書の表紙を少女向きにするって、死ぬほど無意味では?」
正論であった。そして時に、正論は暴言よりも残酷に人の心を抉るものである。
レイは「グハッ」と血を吐くような声を漏らし、テーブルに突っ伏したまま動かなくなってしまった。
「あ、あの、ルイスさん……」
「同期殿。こっちの本も本棚に戻して貰えますか?」
ルイスはもうレイには見向きもせず、封印を施した本を積み上げる。
モニカは黙って本を抱えて、本棚に向かった。
「よいしょ……ふぅ」
抱えていた本の最後の一冊を棚に戻したモニカは額の汗を拭い、本棚を隅から隅まで眺めた。
モニカは本をしまう時、独自のルールに従って収納してしまう悪癖があるのだが、今はきちんと著者名順に並べている。
並べ替えたいなぁ、と密かにムズムズしながら本棚を眺めていたモニカは、ふと違和感を覚えた。
(なんだろう? なんか、さっきの棚と違うような……)
数歩下がって本棚全体を俯瞰して見ると、違和感の原因はすぐに分かった。
部屋の右手に五つ並んだ本棚の内、手前四つの本棚は十段あるのに、奥の本棚だけ九段しかないのだ。
(本棚の大きさそのものは同じなのに、どうして奥の本棚だけ、一段少ないんだろう?)
同じ大きさの本棚で段数を減らせば、当然に一段ごとの高さが少し増える。だが、最奥の本棚に大判の本を入れているという風でもない。
もし、この本棚にみっちりと本が詰まっていたら、モニカは違和感をそのまま放置していただろう。
だが魔導書の封印作業中の今、棚は殆どが空だった。だからモニカは気づいた。
最奥の本棚の一番下の段の奥板に、不自然な継ぎ目と溝がある。溝は指を引っ掛けるのに丁度良い大きさだ。
(この本棚は、部屋の右奥の角にピッタリ収まるよう設置されている……ということは……)
モニカは溝に指を引っ掛け、本棚の奥板をスライドさせた。
モニカの想像通り奥板は横に動き、その向こう側に何も無い空間が現れる。空間は真っ暗で、何があるのかまでは見えない。
「同期殿、何をしているのです?」
床に頬をくっつけて、本棚の一番下の段に手を突っ込んでいるモニカを、ルイスが怪訝そうに見下ろした。
「ルイスさん、ここに不自然な空間が……」
全てを言い終えるより早く、モニカの右手首に何かが絡みついた。
え? と思った次の瞬間、絡みついた何かに引きずり込まれるように、モニカは本棚の奥へ落ちていく。
(ええええええええ!? なに? なに? なにぃぃぃぃ!?)
モニカがどんなに高い計算能力を有していて、無詠唱で魔術が使えても、混乱状態では正しく魔術式を構成することなどできない。
(なにこれ、なにこれ、なにこれぇぇぇ!?)
感じるのは右手首を引っ張られる感覚と、浮遊感。モニカはどこかに向かって落ちているのだ。
悲鳴をあげることもできず落下していくモニカの頭上で、ルイスの詠唱が聞こえた。あれは飛行魔術の詠唱だ。
「同期殿!」
次の瞬間、モニカのローブの背中の辺りを誰かが乱暴に掴んだ。誰か──言うまでもない。飛行魔術を使ったルイスだ。どうやらモニカを追って本棚の奥に飛び込み、助けてくれたらしい。
周囲は真っ暗で、どういう状況なのかがよく分からないが、飛行魔術を使ったルイスがモニカのローブを掴んで空中で静止しているということだけは分かる。
「ルッ、ルッ、ルイス、さん……っ」
「照明」
「ひゃいっ」
モニカは無詠唱で己の指先に小さな火を灯した。
すると、モニカの右手首に絡みついていた何かが、火に怯えるようにスルスルと離れていく。
「あれは……植物の、蔓?」
呟き、モニカは魔術で起こした火を少し大きくして、周囲を照らす。
モニカ達がいる空間は建物で言うなら、三階建ての高さの空間だ。二人は、その中間ぐらいの位置で静止していることになる。
モニカが起こしたのは小さな火なので全体の様子は分からないが、その空間は不自然に広かった。少なくとも、先ほどまでモニカ達が作業していた部屋よりずっと広い。
そしてその地面一面を埋め尽くすように、植物の蔓や木の根らしき物が蠢いていた。
先ほどモニカの手首に絡みついた細い蔓もあれば、人の腕より太い蔓や木の根もある。それらがウゾウゾと緩やかに蠢いている光景は、地面を埋め尽くす無数の蛇を思わせた。
ルイスはモニカを片手で掴んだまま、舌打ちをする。
「魔力を帯びて肥大化した植物……非常に嫌な予感がしますなぁ。同期殿、もう少し広範囲を照らせますか?」
モニカは頷き、火を大きくして照らす範囲を広げた。
おそらくこの空間は、元は小さな隠し部屋だったのだろう。それこそ、あの本棚の裏から降りても怪我をしない規模の小部屋だったに違いない。一部、人工物の名残がある。
それをこの植物達が無理やり掘り進めて、この広い空間は出来上がったのだ。
「感知の魔術を使います。照明はそのまま維持。攻撃が来たら処理を」
ルイスは手短に指示を出して、詠唱を始めた。感知の魔術だ。
一般的に魔術師が同時に維持できる魔術は二つまで。ルイスは今、飛行魔術を維持しているので、感知の魔術を使うと、他の魔術が使えなくなる。
その間、照明の維持と防御はモニカの役目というわけだ。
植物はモニカ達を敵とみなしたのか、蔓の一部がこちらに向かって伸びてきた。
モニカはルイスに掴まれた不安定な体勢のまま、無詠唱で風の刃を起こし、淡々と蔓を切断していく。
(……蔓が思ったより硬い。魔力を帯びてるんだ)
モニカが十数本の蔓を処理したところで、ルイスが口を開いた。
「見えました。あそこ……あの木の根の辺りに強い魔力反応があります」
おそらくその何かが、この状況の元凶なのだろう。
問題は、それを迂闊に攻撃できないという点だ。
そこにある物がモニカの予想通りだとしたら、破壊すると事態は確実に悪化する。ルイスもそれを分かっているのだろう。彼は険しい顔で、蔓の群れを睨んだ。
「さて、どう処理したものか……一度上に戻って態勢を立て直すか」
ルイスが呟いたその時、二人の頭上から「ぉぁぁぁぁあ!?」と悲鳴が聞こえた。レイの声だ。
頭上を見上げたモニカは今更気づいた、蔓の何本かが、モニカの落ちてきた穴から図書館側に伸びている。
やがて、蔓に絡め取られたレイが、穴からズルリと落ちてきた。
彼の体はそのまま落下することなく、蔓の先端でプランプランと揺れている。
「こ、これはどういうことだ……もしかして、俺は植物に愛される才能があったのか……!? あ、愛されてる? 俺は植物に愛されてるのかっ!」
モニカはかける言葉を失った。
レイは期待に目を輝かせているが、どう見ても捕食されかけているようにしか見えない。
ルイスが呆れたように、ため息をつく。
「あの人、案外前向きですよね。他人の靴下に穴空けて、自己肯定感を上げる必要などないのでは?」
「えぇと……あの、助け……」
モニカが無詠唱魔術で風の刃を起こそうとすると、ルイスはそれを制し、レイに声をかけた。
「呪術師殿。残念ながら貴方は愛されていません。その植物に食い物にされているのです。お可哀想に」
「あ、愛されてなかった……お、おおお俺は、弄ばれたのか!」
植物に弄ばれた男は、己を拘束する蔓を憎々しげに睨み、低い声で呻いた。
「愛されたと思ったのに……思ったのに……憎い憎い憎い俺を弄んだこの植物が憎い……呪ってやる呪ってやる呪われてしまえぇぇぇ」
レイがブツブツと早口で詠唱をすると、彼の左頬の紋様が紫色に輝き、スルスルと宙に浮かび上がる。
紋様はレイを拘束する蔓に張り付き、血管のように細く長く伸びて侵食していった。
「俺を愛してくれないなら、二度と花実をつけることなく枯れ果てるがいい」
レイを拘束する蔓が茶色く変色し、萎れていく。
蔓は拘束力を失い、プラプラと揺れていたレイの体は蔓の海にベシャリと落ちた。
すると今度はレイが落ちた地点を中心に呪印が侵食し、蔓が次々と枯れていく。
まるで悪夢のような光景に、ルイスがしみじみと呟いた。
「呪術師殿は、敵陣に放り込まれた時が一番輝きますなぁ」
この人は、同僚を何だと思っているのか。
モニカが「ひぇぇ……」と小さく声をあげると、ルイスは片眼鏡を押さえて呟く。
「さて、そろそろ回収といきますか。同期殿、残った蔓の処理を頼みます」
「は、はい……」
地面を埋め尽くす植物は、レイの力で既に三割枯れていた。まだ枯れていない部分も、だいぶ動きが鈍くなっている。
ルイスは右手でモニカをぶら下げたまま、木の根が集中した場所に飛行魔術で急降下した。
植物達は最後の足掻きとばかりにルイスに蔓を伸ばすも、モニカが操る風の刃に切り裂かれる。
「木の根、手前二つ」
ルイスの指示した木の根に、モニカは狙いを定める。
モニカは今、照明用の火球を維持している。それ故、使える魔術はあと一つだけだ。無駄撃ちはできない。
(座標軸問題無し。概算魔力含有量から導き出される強度は……)
モニカは蔓に含まれていた魔力量から木の根の強度を算出し、それに合った威力になるよう風の刃を調整した。
単純に威力の高い魔術を叩きつけるのは簡単だ。だが、それだと木の根の下にある物を破壊してしまう。
(……これで)
モニカが放った風の刃は正確に、ルイスが指示した木の根だけをバラバラに切断した。
ルイスが口の端をニィと持ち上げて、獰猛に笑う。
「良い腕です」
ルイスはモニカを掴んでいるのと反対の左手を、木の根の残骸に突っ込む。そうして何かを掴んで引っ張り出した。
ルイスの手が掴んでいるのは、黒い革表紙に魔法陣を箔押しした魔導書だ。年代物らしく所々損傷しており、表紙の魔法陣もだいぶ掠れている。
ルイスは早口で封印結界の詠唱をした。ルイスの指先から放たれた魔力は金色の鎖に形を変え、黒い魔導書をグルリと覆う。その鎖の輪は、一つ一つが魔術式でできている強固な結界だ。
やがて鎖はピタリと魔導書に吸い付き、消える。後に残された魔導書には、鎖を構成していた魔術式が薄く浮かび上がっていた。
「封印完了」
その言葉と同時に、蔓と木の根が力を失ってバタバタと地に落ちる。
魔力を失った植物はレイの呪いに侵食され、呆気なく枯れて散った。
* * *
植物の残骸だらけの隠し部屋から元の部屋に戻った三人は、各々椅子に座り込んだ。
体力の無いモニカとレイはすっかり疲弊しているが、ルイスはいつもと変わらぬ態度で黒い魔導書を検分している。
テーブルに顎を載せていたレイが、ピンク色の目をギョロリと動かして魔導書を睨んだ。
「結局、諸悪の根源のその本は、何だったんだ」
「文字が一部掠れていますが、著者名は分かります。……著者、レベッカ・ローズバーグ」
ルイスが口にした著者名に、レイとモニカは目を見開いた。
「初代〈茨の魔女〉じゃないか!」
「え、え、そんなすごい魔導書だったんですか!?」
初代〈茨の魔女〉レベッカ・ローズバーグは、リディル王国でその名を知らぬ者はいない伝説の魔女だ。
彼女は植物操作に長けており、操る薔薇は人喰い薔薇要塞と呼ばれ、千を越える軍勢を血祭りにしたという。
〈茨の魔女〉のローズバーグ家は、今もリディル王国における魔術師の名門で、七賢人には常にローズバーグ家の当主が名を連ねていた。
現七賢人にも、五代目〈茨の魔女〉が就任している。
「あの、ルイスさん……初代〈茨の魔女〉様の魔導書って、すごく貴重な物なんじゃ……」
モニカがボソボソと言うと、ルイスは小さく頷いた。
「おそらく、この図書館を管理していた一族の人間が、魔導書ブームの時に手に入れたのでしょう……それも、違法ルートで」
その言葉で、モニカにも大体の事情が読めてきた。
違法ルートで手に入れたこの魔導書を、所有者は図書館に隠し、封印結界を施した。
だが、このヘイムズ=ナリア図書館を管理する一族は断絶してしまったのだ。
その一族の誰が所有者だったのかは、今となっては分からない。ただ、隠し部屋の魔導書のことを知る人間はいなくなってしまった。
そうして月日が流れ、魔導書も封印結界も劣化してしまったのだ。
「この魔導書は、植物操作の魔術を記した魔導書だったんでしょうねぇ。その魔術式が漏れ出して、隠し部屋の周辺にある植物に影響を及ぼしてしまった」
そこで言葉を切り、ルイスは軽く肩を竦める。
「この図書館に来る途中、土砂崩れで道が塞がっていたでしょう? あれも、この植物のしわざだと思いますよ。あちらこちらに根を伸ばしていたようですし」
隠し部屋は本来あった空間よりも広く、深く掘り進められていた。その過程で、図書館周辺の土地や植物に影響を及ぼしたのは言うまでもない。
レイが鼻の頭に皺を寄せて呻いた。
「な、なんて傍迷惑な魔導書なんだ」
「傍迷惑なのは、魔導書をきちんと管理しなかった奴です。生きていたら、迷惑料と封印の手間賃を請求するところなのですが……はぁ」
ルイスはやるせ無いとばかりに、ため息をついた。
なにせ迷惑料と手間賃を請求しようにも、既に魔導書の所有者もその一族も生きていない。
初代〈茨の魔女〉の魔導書はヘイムズ=ナリア図書館の目録に無い本だ。現館長は、知らぬ存ぜぬを貫き通すだろう。
ルイスは魔導書に浮かび上がった封印術式を指でなぞった。彼が先ほど施したのは、詠唱が短く済む分、持続時間の短い簡易封印だ。初代〈茨の魔女〉の魔導書ともなれば、当然に最上位の封印をかけ直す必要があるだろう。
「最上位封印を施して、隠し部屋にも現場保存の封印をして、今回の件の報告書を作って……」
増えた仕事を指折り数え、ルイスは壁の時計に目を向けた。
既に時刻は夕方近いが、魔導書の封印作業はまだ半分以上残っている。
「こうなったら徹夜です。図書館の責任者に滞在許可をもらってくるので、ちょっと待っててください」
「なんで俺まで……」
「言ったでしょう。明日はデートなんですよ、私」
片眼鏡の奥で、ルイスの目はギラギラと物騒に輝いている。
その有無を言わさぬ気迫に、モニカとレイは黙って作業を再開した。
森の中にあるヘイムズ=ナリア図書館は、朝になると野鳥の鳴き声が、そこかしこから聞こえてくる。
夏の早朝の心地良い涼しさの中、鳥達の合唱を聞きながら、モニカは羽根ペンを手放した。
「最後の一冊、終わり、ましたぁ……」
「俺も、修復作業完了……」
モニカとレイが交互に言うと、ルイスも最後の一冊の封印を完成させ、杖を手放した。
そうして彼は椅子の背もたれに背中を預け、隈の浮いた目で天井を仰ぐ。
「封印完了です……これでデートに間に合う」
「あのぅ、ルイスさん。デートって何時からなんです、か?」
モニカが訊ねると、ルイスは椅子にもたれていた体を起こして答えた。
「正午に、王都のリルタリア公園噴水前で待ち合わせです」
「うぇっ!? そ、それって……もう間に合わないんじゃ……」
ヘイムズ=ナリア図書館から王都まで、早馬を飛ばしても到着するのは夜になる。馬車だともっとかかるだろう。
だがルイスは口の端を持ち上げ、クツクツと笑った。
「こんなこともあろうかと、うちの契約精霊を呼び寄せておいたのですよ」
ルイスは風の上位精霊と契約している稀有な魔術師だ。
飛行魔術は魔力の消費が激しく、人間が長時間使えるようなものではないが、風の上位精霊の力ならルイスを王都まで運ぶのも容易いだろう。
ルイスは懐からエメラルドの指輪を取り出した。エメラルドの中にはうっすらと魔術式が浮かび上がっている。あれは精霊との契約石だ。
ルイスはその指輪を掲げ、早口で詠唱をする。
「──契約に従い、疾くきたれ。風霊リィンズベルフィード!」
ルイスの呼びかけに応えるように、窓の外から一陣の風が吹き込んだ。
魔力を伴ったその風は、黄緑色の光の粒子を纏っている。
その風の中に浮かんでいるのは、ルイスの契約精霊──ではなく、一枚の紙切れ。
ヒラヒラと落ちてきた紙には、あまり上手とは言えない字でこう書かれていた。
『人間には休暇という文化があると学びました故、現在、休暇を実践中です。
一週間ほど戻りませんので、あしからず。
リィンズベルフィード』
ルイスのこめかみに青筋が浮いた。
「あんんんっの、駄メイドぉ──っ!」
ルイスは紙切れをグシャグシャに丸めて屑籠に叩きつけると、杖を握りしめて早口で詠唱を始める。
その詠唱を聞いたモニカとレイは、ギョッと目を剥いた。
「ルイスさん、ま、まさか、飛行魔術で……っ!?」
「どう考えても、無茶だろぉ!? 人間の魔力じゃ、王都に着くまで保たない!」
ルイスは窓枠に足をかけ、キリリとした顔で言った。
「惚れた女のためなら、この程度、無茶の内に入りません」
ルイスは三つ編みを尻尾のようにたなびかせ、窓から飛び立つ。
早朝の空に消えていくルイスの姿を見送り、レイがボソリと呟いた。
「くそぅ……いつか言ってみたいな、あの台詞……」
かくして、長距離飛行の国内記録に迫る勢いで飛行魔術をかっ飛ばしたルイス・ミラーは、ギリギリでデートの待ち合わせ場所に辿り着くも、最後の最後で魔力切れとなり、待ち合わせ場所の噴水に墜落。
寛大な婚約者はルイスの無茶に怒りつつも、魔力切れの彼を甲斐甲斐しく看病してくれたという。
※本ページは『サイレント・ウィッチ IV -after- 沈黙の魔女の事件簿』の試し読みページです。
※この試し読みは本企画の為に制作されたもので、実際の書籍版とは内容が異なる場合があります。
※本企画は予告なく終了する場合があります。